こんにちは、山口です。
先週の記事でお伝えした通り、現在「而今の会」は「オンライン下合せ」の真っ最中なのですが、今週から各パートのお稽古模様を記事リレーにてご紹介しようと思います。
トップバッターは、尺八の僕からです。
トップバッターは、尺八の僕からです。
さて、よく言われるのが、三曲において「三絃は骨、箏は肉、尺八は皮」という例えです。
完全に的を得た例えなのかどうかはともかく、僕としては三絃は「本手」で唄も手も共に曲の骨格である存在、箏は「替手」として本手の三絃を装飾し盛り上げていく存在だなと理解しております。
完全に的を得た例えなのかどうかはともかく、僕としては三絃は「本手」で唄も手も共に曲の骨格である存在、箏は「替手」として本手の三絃を装飾し盛り上げていく存在だなと理解しております。
それに対し、尺八は唯一の「持続音楽器」であり、特に琴古流の尺八は三絃本手に「ベタ付け」になっていますが、その役割としては「音と音を流麗につなぐ」こと、「音の増幅や減衰、音色のふくよかさ」などを表現していくことなどに存在意義があるのかなと考えています。つまり、音楽としての本質面は基本的に糸方が担って下さっているところに、如何に尺八が入ることで音楽的な付加価値をつけることができるか、そこが値打ちなのかなと考え、日々精進を重ねております。
地歌箏曲はその名前の通り、地歌と箏曲だけで成り立つ音楽であり、糸の先生によっては「糸の余韻を消すから、尺八はない方がいい」というお考えの方もあられると聞きますので、「尺八が入ってよかった!」と思っていただけるためにがんばっています。
さて、「笹の露」は奥傳曲の中でも二つの手事を持つ長大な楽曲であり、全曲通すと20分を超えます。その中で、軽妙な歌詞や美しく整った旋律、そして「さしつさされつ」の70回近くもある掛け合いなど、たくさんの聴きどころがあるのですが、それと同時に糸方の「調弦替え」による、飽きさせない曲展開も魅力的だと思います。20分を超え、手事が2つあるような大曲になると、「八重衣」のようにあえて本調子で通してあるような例外を除き、一般的に三絃は低めの調子からしだいに調弦を上げていくような展開が多いようです。「笹の露」も初めは本調子で出て、1つ目の手事を終えて中歌で二上りとなり、後の手事のチラシあたりで転調して、後歌で高い三下りとなります。個人的に、この「後歌の高三下り」が、尺八にとって「笹の露」の「難所」の一つであるように感じています。
というのも、「高三下り」とは、二上りの「ロ、チ、ロ」から一の糸を1音上げて「ツ中、チ、ロ」となっています。これは、通常の三下りの「ロ、レ、リ」から全て1音上がった調子、つまり「八寸管から見た六寸管の調子」となるわけなんですね。本当ならば後歌でサッと六寸管に持ち替えれば、指使いはふつうの「三下り」の通りになるところを無理やり八寸管でやっているので、「難しい転調」の連続のような指使いに見えるんです。だから、「ツの中メリ」「レのメリ」「ヒの中メリ」「五のヒのメリ」の連発になるわけですね。
これらの「ややこしい指使い」は、琴古流では基本的に替え指をせず「音階上メリの音」が必要な音はメって出します。例えば、「レのメリ」は「ツ」、「五のヒのメリ」は「ヒ」と同音です。ですから、流派や会派によっては出しやすい全音の指使いに置き換えて吹くこともあるようです。しかし、それでは「メリの音色」がどうしても出ません。
六寸管の「ロ、ツメ、レ、チ、ヒメ」は、八寸で吹くと「ツ中、レメ、チ、ヒ中、五ヒメ」となるのであるから、「レのメリ」は「ツのメリ」の、「五のヒのメリ」は「ヒのメリ」のつもりで吹く必要があるわけです。
とにかく難しい手の連続で、音程も狂いやすいし、長い曲を拭き通してきた最後のところでとても細かな神経を使わなければならないポイントなんですが、だからこそ演奏しがいのあるところでもあります。「御山獅子」「西行桜」なども、最後のところは同じような難しい指使いが出てきます。こうした曲でいかに「自然」に聴こえるように吹けるか。「八寸管で吹いているのに、まるで六寸」のような音のタッチを表現できるのか、練習を重ねて行きたいところです。
【而今の会・「談話室」にて…】
三絃の本調子→二上り→高三下りと、
お箏の半雲井調子→平調子→中空調子の転調は
宇治巡りや西行桜と同じ構造でして曲が
進むにつれ段々と高潮して行くのを感じますね。
それと同じくして歌の声域も上がりますので、
前歌や中歌で使い切らずちゃんと後歌まで
残して行ける様に歌えれば御の字です。
「高潮」まさにその通りだと思います。
「手事2つ」の曲の多くが持つ、独特の高揚感がありますよね。
「松竹梅」「根曳の松」なども、最高潮に盛り上がって、炸裂するように終わるかっこよさがありますよね!
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