2017年4月23日日曜日

酒 復称笹の露

こんにちは、山口です。



琴古流の尺八界では古来より、「笹の露」のことを副題とでもいうべき「酒」の呼称で呼ぶ習慣があります。青譜の題箋にも「酒」とあり、その下に小さく「復称 笹の露」と書かれています。僕はもともと都山流の出身なので、琴古流に入門して初めてのおさらい会のプログラムに「酒」と書いてあるのを見て「そんな古曲、あったっけ!?」と驚いたところ、「笹の露」だった、という体験をしました。琴古流独特の曲の呼び方や漢字の使い方はいくつかありますが、それらは琴古流の「味わい」として、大切に伝承していきたいなと思っております。



さらにもう一つ、琴古譜の「笹の露」には、作曲者の記載箇所に「石川勾当」(正しくは菊岡検校)と書いてあります。これも、師匠の御宅でお稽古をつけて頂いた時に教えていただいて訂正した思い出があります。白譜の「笹の露」は持ち合わせていないので確認できないのですが、青譜や白譜が出回り始めるより一世代前の青刷りの琴古譜でも「酒、石川勾当作曲、笹の露トモ云」とありますので、近代に現行の琴古譜や地歌箏曲の手付けが完成して以来、曲名の呼称と作曲者名の誤りは「琴古流の伝統」とでもいうべきものになっているようです。面白いですね。



さて、「酒」といえば、もちろん地歌箏曲の「笹の露」も尺八界において人気の奥傳曲といえると思いますが、それと同等、いやそれ以上に「本物の」酒の方も、尺八界には大層な愛飲家が多いようです。雑誌『三曲』の記事をめくると、本当にそういう話題が多いので、ここで二、三取り上げてみたいと思います。

◎豊田古童(初代古童)
当時日本随一の名人と呼ばれた初代古童師に入門を許されたので竹翁先生は飛立つばかりに喜び勇んで、早速その翌日から稽古に通はれたのです、其時竹翁先生の宅は下谷の大恩寺前で、そこから日本橋の箔屋町にある古童師の家へ日々通ふのですが、どうした事か一向に教えて呉れる気配がない、それでも構はず通ふが色々の口実を以て尺八は手に取らぬ、最もこの豊田古童と云ふ先生は天性酒落の人で、酒も余程嗜まれてゐた様子、いつも酒を飲んでゐては「明日こい」翌日行くと又「今日も一杯やっとるから明日来い」又翌日行くと「今日は尺八を作ってゐるから明日来い」といふ調子で毎日々々口実を設けての門前払ひ、かうなれば根気較べです、飽迄熱心な竹翁先生のほうでは只習ひたい一念から根気よく通ふこと二ヶ月に渉りました、然しそれでも所詮相手にされそうにはない。
そこで先生も決心されました、それは丁度大雨の降る日、今日こそは師匠も閑であらう、今日往て若しも教へて貰へなければ断然自分は学ばぬ、あきらめぬ、と決心して出かけて行きました、相変らず師匠は酒に酔て座敷に寝てゐたが、竹翁先生又も懲りずに来た所を見て「ソラ又やって来た」とばかりに冷やかに見て相手にせぬ、竹翁先生は決心はしておるが悄然としてその玄関に佇立んで如何にも無念の思入れ、その姿と顔を見てか忽ち「まァ上れ」と初めてこんな声がかゝったので、驚きの眼を張って竹翁先生は不思議な仕合せと、初づ暫く座敷に上られたのです、その時初めて初代古童師は莞爾した顔になって話し出されました。「実は今迄お前に教えなかったのはお前の心を試したのだ、お前の熱心もよくわかったから此上は今日からミッチリと稽古して、私が知ってる所の秘曲は悉くお前に伝えよう」とうって変って親切なる言葉、竹翁先生は感極まって泣かんばかりに喜ばれたのです、これから初代古童師について三年間、本曲外曲も師のものは悉く授かったのです。…
 「荒木竹翁先生」三浦琴童『三曲』大正13年8月より

◎荒木竹翁(二代目古童)
前号でちよと竹翁先生の健康に就て述べましたが、実際先生の強健とその平常に就ては到底今の若い者の遠く及ばぬ処がありまして、酒も随分いけた方で、昼と晩に、日に二度はやってゐられたのですが、最も先生のお酒は四十を越してから飲み出されたので、中々強い方で、従って老いて益々盛んな処が見受けられました。…
 「荒木竹翁先生」三浦琴童『三曲』大正13年12月

◎三浦琴童
…故佐藤左久、上原眞佐喜、三浦琴童、この三人が当時の酒豪で、中でも三浦さんは熱燗で有名、一名熱い燗の事を仲間で三浦燗と云った程、それに就て三浦さんは嘗て言はれた「あれは竹翁さんが熱燗がすきでそのお相手をしてゐたからだ」との事であった。
 「三浦琴童先生を追憶する」藤田鈴朗『三曲』昭和15年5月

…先生の熱燗は有名なものでしたのでいつも先生燗と自分燗のお銚子を別々に二本並べるので先生もお笑いになりました。
 「虚無吹断 三浦琴童先生の憶出」高野宗童『三曲』昭和16年2月


具体的な文面は省略しますが、私の最も敬愛する尺八奏者・山口五郎先生も、お酒が大層お好きであることでも有名ですよね。



尺八家は、酒を愛する人が多いようで、そういったあたりも込みで「笹の露」のことを「酒」と思いを込めて呼んでいるのかもしれませんね。



〜〜〜〜〜@而今の会・web談話室〜〜〜〜〜


尺八の先人方で古来より酒豪はいたのですね。
因みに、宮城譜ですと笹の露の別名として
『一名 酒』
と表記されており、尺八とは逆です。



琴古流の外曲は、荒木竹翁が長瀬勝雄一に師事し、手付けしたものが根源になっています。もしかしたら、その長瀬勝雄一の系統(本格的に江戸に生田流が進出する前の、生田と山田の両方の橋渡しをした芸系。山田流への地歌箏曲の移曲は、長瀬勝雄一の協力によるところが大きいと見られる)で「酒」と呼んでいたのかも知れませんね。しかし、そんな小難しいことよりも、「酒」好きな多数の尺八家たちの精神が表れているのかも知れません。

ちなみに僕自身は、お酒は好きなのですが、昨日はどうも「お酒に飲まれ」てしまって、、、、
飛躍できないのはお酒に弱いからなのかも…



色んな意味で酒の存在は大きいと言えます。
笹の露と言うと、どちらかと言えば女性が使う
イメージがありますので、山口さんの文面から
察すると男言葉でビシッと酒と言うのが
収まるかなと思います。
まぁ、尤も明治以前の三曲は男性中心でしたから
自然と酒で通っていたのでしょう。

女房言葉で『ささ』とか『笹の露』は
使われておりましたので、明治以降は自然と
糸方では笹の露と呼ぶ様になったのだと思えて来ます。



長瀬勝雄一は、関西の方で修行を積み、江戸に帰郷したそうで、その頃は生田が受け入れられるような土壌ではなかったみたいなんですが、その人柄と、山田流との積極的な交流で周りからの支持を得て、名人として名を知られたらしいです。
山田流にも「笹の露」は移曲された訳だし、その昔は「いい!」と思った曲は習って取り入れたり、交換したりと、今の環境よりは逆に芸の面では自由だったんじゃないですかね?



私は調べた訳ではありませんが、移曲という程の取り入れ方ではなかったと思います。
譜面化はされなかったという事は、取得すべき必須の曲とは別に、生田の曲への憧れ的な位置づけで 弾かれていたのではと思います。



昔の芸の交わりは、今よりもずっと
おおらかだったと聞いてますね。
山田では京ものと呼んで生田の曲が弾かれて
ますけども、生田では逆に山田の古典は
弾かないのがナゾです。

0 件のコメント:

コメントを投稿